「いじめ」が社会問題化して久しいが、行政や教育関係者がいくら努力しても、「いじめ」が原因で自殺する子供が後を絶たない。
周りが皆貧乏で、親たちは生活に追われ、子供に構っている余裕がなかった時代は、学校から帰れば、あとは自由時間で、近所の子供達と夕方まで遊び回り、疲れ果てて家に帰るというパターンだった。
そして、近所の子供達にも、幼児から中学生まで色んな年齢の子供がいたから、その中から、自然にボス的な存在の子供(ガキ大将)が頭角を現わして、取り仕切っていた。
このため、良い意味でも悪い意味でも統制がとれ、その中で、子供たちは揉まれ、人づきあいの仕方や、リーダーシップを身に付けて行った。
未熟な子供たちの集まりだから、当然、いじめっ子がいて、いじめがあったし、ケンカもあったが、それも抑制されたものであり、今日のように、相手を殺したり、自殺にまで追い込んだりするような深刻なものではなかった。
いじめられた子も、いじめを受けることを通じて、いじめに対する免疫が出来、また、いじめの辛さを経験することによって、別の子をいじめなくなるなど、精神的にも成長し、逞しくなって行く、いわゆる、子供が子供を育てる循環が出来ていたのである。
翻って、今の子供達は、学校から帰れば、塾や習い事に追いまくられ、遊ぶ時間もなければ、遊び相手となる近所の子供もそれほど多くない。
だからどうしても、ゲームなどに没頭し、人との付き合い方を、実践を通じて学んで行くことができないままに、大人になって行く。
いじめは、自分とは異質のものを排除しょうとする本能的なものだが、人間である以上、コントロールされ、限界がなければならい。
しかし、小さいころから多様な人と付き合ったことがない子供は、相手が耐えられる限界を見極めることができずに、際限なくいじめがエスカレートしてしまうのだ。
いじめられる子も、これにどう対抗してよいか分からず、一方的にいじめを受け続けてしまい、ついに限界に達して自殺に追い込まれてしまうのだ。
もし、いじめに対する免疫が出来ており、対抗する術を身に付けておれば、自殺は避けられたかもしれない。
また、これを指導する教師も、小さいころから近所の子に揉まれることなく純粋培養されてしまうと、生徒がいくら窮状を訴え、自殺のサインを出しても、事態の深刻さを理解することができない上に、どう対応したらよいかわからないため、「がんばりましょうね」とか「よくがまんしましたね」などと、ピンボケの対応しかすることができない。
これでは、子供は浮かばれないし、絶望して、行きつくところは、自殺しかないのだ。
いじめは悪いことなのだろうか、いじめは無くすることは出来るのだろうか?
その答えは、いじめは悪いとか良いとか言うものではなく、必然であり、無くすることは出来ないということだろう。
なぜならば、それは、生き物が本来持っている、異質なものの排除や闘争本能に根差したものであるからである。
もし、これを否定するのであれば、ヒトは生き物であることを止めなければならない。
いじめは、程度の差こそあれ、学校だけでなく、家庭内、職場、サークルなど人の集まる所ならどこにでもあるのである。
問題は、このいじめをいかにコントロールするかということであろう。
生徒には、いじめは無いに越したことはないが、程度の差こそあれ、人間である以上避けられないこと、どのような時にいじめが起きるのか、いじめは限界を見極め加減しなければならないことを教える。
また、教師も、子供が出すサインをしっかりと受け止め、その深刻さを適切に判断し、深刻な事態にならないように芽を摘み取る力量を身に着ける。
こうした地道な努力が必要なのではないだろうか
。そのためには、教師もいじめに対する知識や対処法を身に付け、実践することが大切であろう。
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