カエルと出会い

November, 2010
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出合い− ゴア

ゴアコンカニ語:गोंय、マラーティー語:गोवा、ポルトガル語:Goa)はインド西海岸の州であり、16世紀20世紀半ばまでポルトガルアジアにおける拠点であった。

ゴアの征服

ゴアはインド西海岸中部のマンドウィー河の河口にある島に位置し、天然の良港を有する。16世紀初めにはイスラーム王朝のビジャープル王国の重要都市であった。1510年2月ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケが1,000人のポルトガル兵を率いて来航し、この都市を降伏させた。しかし、ゴアの要塞が老巧化しており使えなかったため、同年5月にビジャープル王国のスルタが50,000の兵を率いて攻撃してくると一旦引き上げた。アフォンソ・デ・アルブケルケはポルトガル本国からの増援が到着すると、同年11月2,000のポルトガル兵によってゴアを再び陥落させた。ビジャープルのスルタンは何度もゴアを攻撃したが、奪回できなかった。1512年にはゴア要塞へ通じる水路を制するベナステリム要塞を奪取し、ゴアに病院といくつかの教会を建設した。

黄金のゴア

1530年、ポルトガル領インドの首府はコーチンからゴアに移され、アジアの全植民地を統治するポルトガルのインド総督あるいはインド副王が駐在した。ゴアとリスボンの間には喜望峰経由の定期航路が開かれ、多くのポルトガル人をアジアに送り出し、アジアの富をポルトガルに持ち帰った。1534年にはローマ教会の大司教座が設置され、ローマ教会において全アジアを管轄する中心となり、これを機にサンタ・カタリナ大聖堂が建設された(1562年〜1619年)。17世紀初頭のゴアはモザンビーク長崎に広がるポルトガル海上帝国の首府として「東洋のローマ」と呼ばれる黄金時代を迎えた。当時のゴアの人口は20万人に達し、市内には壮麗な教会や修道院、総督府などの建物が立ち並んで、ヨーロッパの都市にも引けを取らなかったとされる。

ゴアの衰退

17世紀にアジアに進出したオランダがポルトガル船を拿捕したり、マラッカなどポルトガル植民地を奪取すると、ポルトガルの海上覇権は次第に衰えていった。しかし、オランダはゴアを何度も包囲したが、ゴアを陥落させることはできなかった。その後、イギリスがインドに植民地帝国を建設した時も、ポルトガルはゴア、ディーウダマンなどの都市の領有を保持した。インドがイギリスから独立するとインド政府はポルトガルにも領土の返還を求めたが、当時のアントニオ・サラザー独裁政権は応じなかった。このため1961年インド国民軍がポルトガル領の都市に武力侵攻し、インドにおけるポルトガルの植民地支配はようやく終結した。

現在のゴア

ゴアは1961年インドに併合され、1987年以降パナジを首府とするゴア州が設置されており、州の人口は135万人である。州内ではコンカニー語などが使用されているが、ポルトガル語話す住民も30,000から50,000人程度存在する。1986年には聖フランシスコ・ザビエルの墓を収容するボム・ジェズ・バシリカや聖フランシス修道院などポルトガル時代のキリスト教建築が「ゴアの聖堂と修道院」としてユネスコ世界遺産に登録された。

リゾート地であり、サイケデリックトランス素子であるゴアトランスの発祥の地でもある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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